『子供たちに贈る音楽祭』のチケット全収益は宮城県亘理郡亘理町立、
荒浜小学校
・
荒浜中学校
に寄贈させていただくことが、決定しました。
宮城県亘理郡亘理町
は、太平洋岸阿武隈川河口に近く、常磐自動車道と常磐線が町内で交錯しています。全域で津波による壊滅的な大被害を受け、荒浜小・中学校ともに、校舎は使用できない状態となり、現在、同町内のやや内陸にある逢隈小学校、中学校に間借りする形で、授業を続けています。
以下は両小中学校の津波被害の映像です。
http://www.youtube.com/watch?v=d-sWMsFCqsk
http://www.youtube.com/watch?v=4uH6-j3EcsU
(上記 youtube がご覧いただけない場合は、以下で検索してください。)
<東日本大地震で宮城県亘理町荒浜は大津波で壊滅状態荒浜中学校>
<東日本大津波15m 壊滅衝撃瞬間の宮城県亘理町荒浜小学校〜裏堤防破壊>
2012年3月22 日、疎開中の両校を訪問させていただき、その後、現在は閉鎖されている荒浜中学校の校舎内を荒浜中学校菊田教頭先生の案内で見学させていただきました。
<3月にも吹き荒れる「蔵王下し」の強い北風>
3月22日の朝、仙台市内は歩行にも支障のある強風が吹き荒れていました。冬から春にかけて吹くこの強い北風は「蔵王下し」と呼ばれ、毎年3月になっても陸から海に向かって毎日のように吹き荒れるそうです。
当初、訪問先の
逢隈小学校
・
中学校
には仙台駅から常磐戦、または、東北本線で岩沼駅下車、その後、タクシーの予定でしたが、この日は強風のため、海沿い近くを走る東北本線、常磐線のいずれも運休、あるいは遅延し、タクシーで現地に向かうこととなりました。
昨年の大震災後も、「蔵王下し」が吹き荒れ、救助を受ける人、救助する人、避難所で暮らす人…… 。
皆さんはさぞ、寒く、厳しい状況を強いられたと感じながら、タクシーに乗ること40分。最初の訪問先、逢隈小学校に到着しました。
<津波の襲う中、何度も生徒を車でピストン移動された先生方>
大震災当日の避難について、
「地震後、津波まで、30 分ありましたので、残っていた児童たちを教職員の車に年齢の低い子から乗せて、駅で別の車に引渡し、何度も往復して、全員を無事避難させました。生徒は全て無事でしたが、殆どの生徒が身内を無くし、仮説住宅から通学しています」。生徒を避難させた後、津波が襲い、近隣の人々が校舎の2F・3Fに避難したそうです。当日の映像にもありますが、荒浜小学校近くで津波の勢いはやや弱まり、校舎の1Fにある机の上までの波の侵入に留まったため荒浜小学校は2012年中に修復され、2013年4月から修復後の校舎に戻る予定と伺いました。
『子供たちに贈る音楽祭』チケット収益は、修復工事の終了した校舎で使っていただくオルガン2台と体育館で音楽を流す時のアンプ1台、というご希望をいただきました。
押し寄せる津波が1F職員室の窓の向こう側に見える写真を見せていただきました。
伺った3月22 日、校庭にも竜巻を起こす勢いの「蔵王下し」が吹き荒れていました。
<津波が通り過ぎた荒浜中学校も見学>
荒浜中学校は現在、逢隈中学校(逢隈小学校の隣)の3Fに全校生徒、先生方の職員室を置き、間借り中です。仮設住宅ができるまでは、逢隈小中学校の体育館は被災された方々の避難所となっていました。
車で10分ほど離れた、壊滅的な被害を受けた荒浜中学校の校舎の中も見学させていただきました。
昨年の3月11日は、卒業式で、全校生徒はすでに帰宅を終え、津波の時刻、校舎内には教職員の方々が残っていました。避難してきた近隣の400人を超える方々(お子様連れも)とともに、3F、屋上に上がり、津波が東から西へと通り抜けていく光景を目の当たりにされたそうです。
一般的な学校と同じく、荒浜中学校の校舎も東西に長く続き、南側に校庭がありますが、阿武隈川の河口が東にあるため、津波は東から西に押し寄せる形となり、3Fと屋上に避難された人々は目の前を流れていく家々、木々、そして、助けを求める人々を眼下数メートルに見ながら、悪夢のような時間を乗り切り、その後、自衛隊のヘリコプターで順に救出を受けたそうです。
校舎の1Fの窓ガラスは全て割れ、トイレの間仕切りも跡形なく奪われて、便器のみが並び、天井近くの壁には津波の通った跡がくっきりと残されていました。
校舎を出て、体育館に向かう渡り廊下の屋根を支える鉄骨は、大きく「く」の字に曲がり、津波の威力の凄まじさを物語っていました。
現在は1F の割れた窓にはブルーのビニールシートが貼られていますが、「蔵王下し」がビニールシートをバタバタと鳴らし、校舎内を吹き抜け、屋上では何かに掴まっていないと危険なほどの風でした。
津波後も同様の寒さと風の中、ご高齢の方や子供たちを含めた多くの方々がこの屋上で救助を待っていたことを思うと、想像を絶する心と身体のご負担であったと、あらためて胸が痛みました。
校舎の2Fの教室には「卒業おめでとう」3月11日(金)と書かれた黒板がそのままになっていました。
先生、生徒全員が卒業を祝ったわずか数時間後に、大地震と津波が起き、先生方はすでに帰宅した生徒たちの安否を気使いながら、3Fでの避難生活数日を過ごされました。
幸いにも全校生徒は無事でしたが、荒浜小学校と同じく、ほぼ全員が肉親や身内を亡くし、70%が仮設住宅から通学している状況です。
荒浜中学校は1Fが壊滅的な被害を受けたため、修復は不可能で、2014年4月までに新校舎に建て直されるそうです。『子供たちに贈る音楽祭』のチケット収益で贈呈させていただくものは新校舎が落成するまでに考えていただくこととなりました。
<訪問を終えて>
荒浜小学校の佐久間教頭先生は大震災の日は、同じく壊滅的な被害を受けた亘理郡山元町の山元小学校に在職中、また、荒浜中学校の菊田教頭先生は石巻で教頭先生として在職中であったと伺いました。
転任は大震災以前に辞令で決定していたため、それぞれ被災された地で、避難・救助をされた後、新任の荒浜小学校・中学校で、現在の職責にあたられています。
まず、被災地の学校の先生方、荒浜小学校でピストン移送で生徒を避難させている最中の先生方の緊張と恐怖感はいかばかりであったか、また、津波が押し寄せる荒浜中学校で帰宅後の生徒の安否を心配された先生方の心労は、想像を絶するものであったと思います。
荒浜中学校長、清野和夫先生は「生徒たちの心のキズを思います。私自身にもまた、同じ事が起きるのではないかというトラウマがありますので、柔らかな心の子供たちの心にあるキズを癒すには長い年月がかかると思います。心に出来てしまった大きなキズは物だけでは、決して癒すことのできないのです」と。
海が近く、風光明媚で、地の魚を始めとする豊かな名産品に恵まれ、温泉も湧く亘理町は長い歴史を持つ観光地でした。それが、一瞬にして、瓦礫の山と仮し(現在は瓦礫はほとんど撤去されましたが) そこに町があったことなど考えられないほど、何もかもが失われてしまいました。
亘理町で津波で亡くなられた方の数は303人、山元町では674人、宮城県全域では1万人を超えます。
東北地方全体、また、東日本全体では想像を絶する数の命が失われ、生存されている方も家を失い家族を失いました。
宮城県の太平洋岸で同じような津波が起きたのは500年前ということですから、まったく想像のできない悲惨なことが起きた後の人々の心のキズは言葉では表現できません。
この状況は、日本列島を1人の人間の身体に例えて考えるなら、片腕に致命傷を負った以上のことと思います。大怪我をした自らの腕を治療し、労り、元に戻るように努めない人はいません。
荒浜小学校、中学校で、今回の寄贈に対して、感謝の言葉で迎えてくださった先生方に
「お礼を仰らないでください。東京に津波が押し寄せていたとしたら、私たちが大きな被害に遭っていたのですから。同じ日本で、このようなことが起きたのですから、痛みを分かち合いたいと思います。何もできませんが、東京で皆さまを思う人たちがいることをお伝えしたいと思います」と申しあげました。
亘理町の復興計画
も昨年12月にまとまり、10年をかけての復興ということですが、その間、不自由な生活を続けられ、悲しみを抱えて尚、前に進まれる生徒、先生、そして、町民の皆さまの日々を我が事に置き換えて考え、理解しようと努力し、少しでも励ましができるよう被災しなかった私自身も努力を続けたいと思います。
「音楽は心を癒す特効薬」ということに、荒浜小学校、中学校の先生方も
「まったく、その通りです。生徒たちが歌ったり、楽器を奏でたり、その時間は音楽に集中します。一時でも、大震災・大津波を忘れて、音楽に打ち込む、その継続で、もとの明るい心を取り戻して行ってくれると思います」と、賛同してくださいました。
最後に、荒浜小学校、中学校でお会いした、生徒の皆さん、先生方は全て明るく過ごしているご様子でした。子供たちは皆、元気に「こんにちは。いらっしゃいませ」と笑顔で挨拶してくれました。
月並な言葉になりますが、こちらが人の心にある困難中から芽生える力、強さ、明るさ、を教えられました。
<レポート作成者
sonorium
代表 楠しずよ>
= レポートは今後も続きます。=